今回は、小柄ながら独特の得点感覚とスピードで、ヴァンフォーレ甲府の初昇格に貢献した選手のひとりである長谷川太郎さんです。
当時のことやそれ以降のサッカー人生、そして今について語っていただきました。
※長谷川さんより太郎さんの方が、ピンとくる方が多いので呼称、略称を太郎さんとさせていただきました。
下部組織時代
サポサポ
太郎さんは柏レイソルの前身である日立製作所サッカー部の下部組織に在籍していらっしゃいました。
まずは、そこへ入られたきっかけを教えていただけますか。
太郎さん
子供の頃、Jリーグが出来るという話が出た時から、自分もJリーグへ行きたいという思いがありました。
当時、色々なサッカー専門誌が出ていたので、そこに載っているクラブのセレクション情報を調べたんですよ。
日立サッカー部の他にもヴェルディ、ジェフ、マリノスといったクラブがセレクションをしていました。
日立を受ける前に、実はヴェルディを受けました。
テクニック面ではクリアしたんですが、体力がなかったので二次試験で落ちてしまって。
その後に行き先を探していたところ、日立サッカー部がJリーグ入りを目指すにあたって下部組織を作るということで、広く選手を募っていたんです。
太郎さん
そうですね、広く門を開いていて合格した人数も多かったです。
サポサポ
ゼロから下部のチームを立ちあげる時だったからですね。
太郎さん
そうですね。
ちなみにそこにナオト・インティライミもいたんです。
サポサポ
なるほど、その時からの付き合いなんですね。
サポサポ
本当に同期や先輩後輩が多かったんですね。
太郎さん
そうですね、めちゃくちゃ多かったです。
途中からはAチームとBチームに分かれてましたし。
サポサポ
その後、ジュニアユースからユースを経由して無事にトップに上がることが出来たわけですが、それだけ同期が多かったということは、かなり競争が大変だったのではないでしょうか。
太郎さん
そうですね。
途中で辞めるという人はあまりいませんでしたが、ジュニアユースからユースに上がる際には高校のサッカー部へ行った人や、ユースへ入れなかった人もいました。
最終的に同期が20人くらいにふるい落とされ、その中でトップに上がったのは1人でした。
サポサポ
それはすごいですよね。ユース時代も色々大変だったのではないですか。
太郎さん
トップに上がる前、高校2年生からトップの練習に参加したんですが、実は途中で怪我をしてしまいました。
太郎さん
腰痛が出てしまって、半年くらいサッカーが出来ませんでしたね。高校3年生の頭にやっと復帰したくらいです。
太郎さん
そうなんです。それを埋めるために、復帰後は練習の前に毎日2時間シュート練習をしてました。
同期の・・・今はレイソルのGKコーチをしている拓也さんとやっていましたね。
太郎さん
それだけ練習をしていると、やっぱりシュートが入るようになるんですよね。
その甲斐もあってギリギリでトップに入れたという感じです。
サポサポ
シュートやゴールが評価されたということでしょうか。
太郎さん
トップチームへ上る前に鹿島アントラーズとの練習試合があったんですけど、その時に点を取れたんです。
後で聞いたんですが、その時に見に来ていたジーコが僕のことを獲得したいって言ったらしいんですよ。
もしかしたら、それを聞いたレイソルが契約をしてくれたのではないかとも思っています。
ジーコの話はプロになってから聞いたんですけどね。ジーコに認められたんだぞって。
サポサポ
とてもタイミングの良い活躍というかゴールだったんですね。
太郎さん
あの試合は完全にゾーンに入ってました。
ユースではあの試合だけかもっていうくらいです。
一試合を通じて、安定したパフォーマンスとゴールを見せることが出来たことが結果につながりましたね。
ミュージシャンのナオト・インティライミさんは、柏レイソルのジュニアユースに所属していました。
太郎さんとは同期で今も親交があるそうです。