日立製作所サッカー部・柏レイソル
太郎さん
そういうこともあって、トップに入って一年目は勢いがありました。
ちょうどその年には、トヨタカップに出場するためにクルゼイロECが来日していたので、練習試合をしたんです。
クルゼイロには有名選手がたくさんいました。ベベットなんかもいて・・・。
実際試合になったら、ジーダ(ゴールキーパー)から点を取れたんですよ。ミドルシュートで。
この結果で「有望だ」という話になってしばらくは試合に使ってもらえました。
でも、その後は結果を出せなくて、途中からは試合に使われなくなってしまいました。
その後、出場したのはその年の最後にやった試合でしたね。結局、ほぼ1年間は出られなかったんです。スタートで躓いてしまった感じですね。
2年目は試合で使ってもらえるようになって、最終的にはナビスコカップ優勝にも貢献できました。
3年目は怪我をしてあまり出られず。
4年目はある試合でシュートを外したことで評価が下がってしまい、最終的にレンタルに(アルビレックス)新潟へ出ることになりました。
「一本のシュートで人生が変わる」
これを本当に実感した年でしたね。
もっとも、今思えばその一本による結果がプラスになったと思うし、思わなくてはいけないと捉えてます。
サポサポ
サッカー人生を変えるきっかけだったんですね。
アルビレックス新潟
サポサポ
新潟に在籍していた時の思い出を教えてください。
太郎さん
印象に残っているのは練習グラウンドをジプシーしたことですね。あれがあったから、その後の甲府でもすんなり環境に慣れることが出来ました。
サポサポ
当時は新潟もそういう環境だったんですね。
太郎さん
県内の色々なところへ行きました。片道40kmの移動とかもありました。二部練もあったので、行ったり来たりしてトータルで100km以上の移動をしたこともありましたし。
サポサポ
さすがに新潟県は広いだけありますね。県内その移動距離というのは大変ですね。
太郎さん
新潟では今の結婚相手にも会いました。他には末岡とか。
僕がインドのクラブへ行くきっかけになったのは末岡でした。
他にも、丸山さんとか、新井健二さんとか、海外へ行く時にお世話になった人脈はだいたい新潟時代に会った人ですね。
新潟は一年しかいなかったんですが、先々まで影響がありましたね。
地域のつながり、人のつながりが大きい土地でした。
ブラジルにあるミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とするサッカークラブです。
トヨタカップでは1997年に準優勝を指定ます。